2026年9月6日日曜日

山へ登ろうと決めた!

  夏の暑さが少しマシに成って来た。この所はエアコン無しでマーキュリーも一緒に寝れている。色んな情報も聞き、調べて右腕は筋トレもハンドグリップも色々工夫しながらやって来た。ほんの少し右腕はマシに成って来たような気がする。これからは右足もしっかりやって行きたい。山にも登りたい。それで決めたよ。まずは地元の山から攻めようと。。

 雨予報が無ければもう少し遠くでも、と思ったが雨は10時過ぎには降ってくるだろう。それでまずは長谷山へ登ろうと昨晩に決めた。

長谷山ハイキングコースの看板。文字が消えかけている。。。

 そして今朝7時過ぎに家を出て長谷山のハイキングコースから歩く。今日はトレッキング用のストックも持って。もう富士山へも何度も登ったが一度も使った事は無かった。でも今の身体の状態なら使った方がいい。色々調整しながら登って行く。マヒの右手はその長さも少し長い方がいいようだった。

長谷山の頂上。何も見えない。。

 登り始めて1時間30分ほど。2.1㌔と書かれたコースだったが登りでは、今の僕の状態からは上々のペースではないかな。もう何度もここには登っているが山の木々が増えて伸び、一段と見晴らしは悪く成って来ている。登山道も有るが整備がされていないのは残念だよ。三角点の有る所は周りも下界も見えなかった。


 9時頃には到着し、少し休憩して水分とって下山を始める。登りよりも下山に注意しようと、特に右足のつま先を注意して下ったが、左足のかかとが2度すべった。幸い転ばずにカバーできたが、地面は濡れている。気をつけて下山して来たよ。右足の疲れも思っていたよりは大丈夫だった。

テレビ塔の下からは下界も見える。

 10時半頃には神戸に着いたよ。監督やコーチが練習用の汚れたボールを洗ってくれていた。昨日はAチームは松尾さんと松阪で練習試合。1試合目はヒユウが6回まで投げて2-2の同点からその裏、ランナーを3塁においてカイトのゴロが野手選択と成って終わっているね。2試合目の5年生以下は余り打てていないね。守備でのミスも有る様だ。もっともっと頑張らないと。3試合目はフウが先発。ユウトが5回から交代。2人で2四球は有るが失点は2点だけ。上位打線が活発で中でもゼンはスコアで見る限りレフトへ2本の低い打球の2塁打2本とショートへの安打も有る。フウもライト、レフトへ3,2塁打。引っ張り一辺倒で無いのが良いと思うね。

 昨日はBチームはホープさんへ遠征2試合。ホープさんには雨の後のグランド整備からありがとうございました。僕はこの日の朝は草刈りのチャンスだと思って8時前から1時間ほどだけでしたが櫛形の内野の草刈り。朝方は曇り空で良かったのですが9時を過ぎる前から日差しは強く成り、そこで止めました。あまり出来ずに申し訳なかったが、また時間やお天気と相談しながらやりたいと思います。



 ご父兄からは神戸小での始業式にティーボールでの全国大会出場を決めた県大会優勝での表彰式を神戸小校長先生からやって頂きました。以前のティーボールでの全国優勝の時は神戸だけでは無くそれぞれの小学校でも表彰を持ち回りしてやって頂いた、と記憶している。今年も3度目の全国優勝目指して頑張れ!!

 またこのブログ「少年の夢」は2007年秋の新人戦優勝以来、忘れ物をしない様にと書き続けていますがもう19年目。。僕も脳出血からの半身不随を経験し皆さまのお蔭で日常生活には不自由ない所まで回復はしていますが、まだまだ復活と言える状態には程遠いと自分では感じています。

 それで回復に向けたリハビリ中心の日々のブログ記事を、私のサブブログ2の「Yasuhiroの独り言」のページへ記載して行く様にしました。それらは、もし同じようなマヒからの悩みを持つ方がいれば少しでもお役に立てれば、と思っている事からです。いまでどちらにも適当に載せていましたがリハビリなど改善に向けた内容はこちらへ集約していきます。このブログは2011年からの息子のスキルス胃がんとの闘病での日々も2年半ほど色んな事がそのまま残っています。すこしでも皆さまが健康で有る様に、ほんの少しでも力に成ればとても嬉しいです。

 両方のブログのページもトップメニューの右肩トップには、それぞれのブログへのリンクもはりました。ご利用頂ければ嬉しいです。私は今72歳。もう少し頑張ってみようか、と思っています。よろしくお願いします。

2026年9月3日木曜日

予科練、神風(しんぷう)特別攻撃隊。

  僕達は平成3年の春に津に今の家を建てて大阪から引っ越して来た。平成3年と言えば西暦何年?といつも考えるが1991年だ。確か息子は神戸小学校の1年生と成った。7つ違いの姉は西校中の1年。あれから35年か。。

 先日テレビで終戦から81年が経ち、あの太平洋戦争での予科練の訓練やその時代の風潮などを紹介している。予科練と言えば当時の日本海軍のパイロット養成学校。エリートを育成する機関では有るけれども戦況悪化の昭和19年には特攻を目指すパイロット育成機関と成っていた様だ。年齢は14歳からだよ。。今なら中学2年生ぐらいだ。そこから短期間で育成していく。特攻で死んでいくのにね。。

 昭和5年に予科練は開始されたらしいが、当初は70倍以上の競争率だった様だ。それでも太平洋戦争が始まる頃には殆どの予科練生達は「俺たちはいずれ死ぬんだろうな」と語っていたらしい。実際戦地に行った8割以上の人達は帰って来ていない。

 僕の親父も出征はしたが内地だったので今の僕達がいる。それ以上詳しい話は聞いた事も無かった。津に越して来た時に、津にも特攻記念館が有るとは知っていたが行く事は無かった。この年に成って原爆ドームや長崎にもまた行ってみたい。またと言っても前に行ったのは18歳の頃だ。それに鹿児島の知覧特攻記念館へは生きてるうちに是非行きたいと思っている。

 それで、昨日は香良洲に有る「津市香良洲歴史資料館」へヨメと初めて行って来た。調べると、ここは津市役所が管理しているんだね。非核・平和都市を平成19年に宣言している。前葉市長がしてくれたのかな。そんな事も知らなかったがお蔭で入館料も無かった。


 以下、3階に有る遺品などの資料室は写真撮影禁止と有ったが、沢山の遺影などは辛くて見れなかったね。。殆どが10代から20代前半だよ。。こんなことが有って良いのか。。



 空襲に来たB29からまかれたビラ。これは初めて見た。当時の人達はこれを読んで何と思っただろう。。


 終戦前には神戸小近くも爆撃されている。神戸の神社辺りにも爆撃が有ったらしい。


 津の護国神社の資料館にも有ったが、終戦前日の8月14日の昭和天皇を前にした御前会議の様子。僕はいつも思うが、天皇が戦争を止めたのなら、特攻が始まる前に止めれば良かったのに。。終戦より何か月か早く止めていれば、ソ連は参戦には間に合わず、北方領土は日本のままだったのではないか。。などと思うがあの時代には出来なかったのか。。と本当に残念には思う。あの時の終戦を妨害する色んな勢力も有ったとは聞く。。でも確かなのは止める事が出来たのは天皇しかいなかったんだろうと思うね。


 この津市香良洲歴史資料館の外には慰霊棟や沢山の石碑が並んでいる。ちょっと申し訳ないけどもずかずかと入って行く事は心も許さず、手前の祭壇の前で手を合わせたよ。今が有るのは沢山の人達のお蔭だ。感謝と言うより。。20歳前後で散った青年達に心の中でしっかり手を合わしたい。

 特攻は昭和19年の秋から始まったそうだが、説明の資料には僕達が記憶する神風(かみかぜ)特別攻撃隊では無く、神風(しんぷう)特別攻撃隊と書かれていた。当初はそうだったのか、いつしか「かみかぜ」と成ったのか、それは解らない。津のこの施設は海軍の予科練だったが、いつか行きたいと思っている知覧特攻平和会館は陸軍の様だね。その違いが有るのかも知れない。